加藤清正

安土桃山期の刀工堀川国広は、元は日向飫肥城主伊東家に仕える刀工であった。天正5年、伊東氏の没落により山伏となり全国行脚の身の上となった。慶長4年頃より京都堀川一条に住まいし、多くの門弟を育成した。このため、堀川国広との名がついた。国広が率いた堀川派は、新刀における勢力の大きな一角を築いた。肥後熊本城主、加藤清正の愛刀になったことにより、「加藤国広」と通称された。板目肌がよく詰まった鎬造。棟は三つ棟で、鋒がやや延び笠木こころに反る。切先は中切先で猪首。身幅は、棟から切先まで広くなっている。刃文には大きなのたれが見られ、鋩子は乱込み、地蔵ごころあり。表のやや棟寄りに「國廣」の二字銘がある。清正の娘、八十姫の紀州徳川家徳川頼宜への輿入れ時、「加藤国広」は嫁入り道具となった。紀州徳川家の所蔵となったこの名刀は、紀州藩5代藩主徳川吉宗の徳川宗家の継承、8代将軍職就任により将軍家へと移転した。さらに「加藤国広」の流転は続く。「加藤国広」は徳川宗家から田安徳川家へと移動する。享保14年9月、吉宗の次男小次郎宗武の元服、従三位 左近衛権中将兼右衛門督の叙任時、もしくは享保16年1月、江戸城田安門内に屋敷と賄料三万俵が下賜され、田安徳川家の創設時のどちらかといわれている。少なくとも寛延4年の徳川吉宗薨去時までには田安徳川家の収蔵品となっていた。