刀工事典(か行5)

國長は、鎌倉時代末期の山城国の人だそうです。来國俊の弟子だそうです。銘地は國俊に似ているそうで、一族と見られるそうです。摂津国淡路荘中島に移住して、中島来と称したそうです。玄徳年間の工を初代、延文年間の工を二代とするそうです。國信は室町時代前期の山城国の人だそうです。國重の子だそうです。相模国においても作刀したそうです。遺例に、上杉景勝の太刀「唐柏」があるそうです。覇気横溢する皆焼の作を遺しているそうです。國房は室町時代初期の越中国の人だそうです。宇多派。鎌倉時代後期から室町時代中期まで同銘があるそうです。通常目にするのは、応永年間以降の國房だそうです。湯走り、飛び焼きなどがかかった激しい出来の作が多いそうです。國光は、室町時代初期の越中国の人だそうです。宇多派の祖だそうです。鎌倉後期に大和国宇陀郡より越中砺波郡吉岡荘三日市に移住したそうです。國光は鎌倉時代後期の相模国の人だそうです。新籐五。鎌倉鍛冶の祖だそうです。行光、越中則重、郷義弘、正宗らの師だそうです。地鉄は板目に杢目を交えて詰んでいるそうです。地景が働き地沸が厚く付いて、刃文に粒だった沸がついていて湯走りや金線、砂流しがかかる独特の作風を展開したそうです。國宗というのは、鎌倉時代後期の備前国の人だそうです。備前三郎。弘安年間ごろ、鎌倉幕府八代執権北条時宗に召されて、鎌倉においても作刀したそうです。新藤五国光にも影響を与えたそうです。反りの高くついた太刀に、互の目丁子刃という冴えた名品があるそうです。室町時代後期の越中国の國宗は、國房と並ぶ宇多派の刀工だそうです。室町時代の前期、豊後国の國宗は、豊後来といわれたそうです。

國村は、鎌倉時代後期の肥後国の人だそうです。延壽太郎國村。延壽派の祖だそうです。本国は山城国だそうです。来國行の娘婿弘村の子だそうです。要するに國行の孫となるそうです。鎌倉時代の後期に肥後国菊池に移ったそうです。一門には國資、國時、國泰らがいるそうです。山城来國俊や國光といった人たちと同然の作風だそうで、帽子の丸みがやや大きくなっているのが特徴だそうです。國安というのは、鎌倉時代前期の山城国の人だそうです。粟田口國家の三男だそうです。後鳥羽院御番鍛冶を務めたそうです。山城守を受領したそうです。國泰というのは、鎌倉時代末期の肥後国だそうです。延壽國村の子供だそうです。遺例には佐土原島津家伝来の短刀があるそうです。國行というのは鎌倉時代後期の山城国の人だそうです。来派の事実上の祖だそうです。國俊の父だそうです。豪壮な姿の作と優美な姿の作があるそうです。ともに、輪反りが高くて猪首鋒となっているそうです。地鉄には地沸が厚く付いているそうです。沸映りが立っているそうです。刃文は小互の目・丁字を交えているそうです。焼頭に飛び焼き状の湯走り、棟に焼きが入っているそうです。大磨上無銘の作が多いそうです。銘がある作はとても少ないそうです。鎌倉時代後期、大和国の國行は、當麻派の祖だそうです。當麻は興福寺領平田荘内の地名だそうで、河内国と接する地だそうです。ほかの大和伝に比べて沸が強いそうで、相州行光に紛れる無銘刀もあるそうです。銘がある作あ稀有だそうです。鎌倉時代後期の山城国の國吉は、粟田口派だそです。鎌倉時代後期の筑前国の國吉は、良西の子だそうです。実阿の父だそうです。後に出家して西蓮と称したそうです。

鎌倉時代末期、肥後国の國吉は延壽國村の子だそうです。慶定というのは、室町時代後期の山城国の人だそうです。山城国鞍馬に住んでいたそうです。吉継同人。慶定は吉次の法名だそうです。源左衛門というのは安土桃山時代の肥後国の人だそうです。同田貫派だそうです。上野介というのは、安土桃山時代の肥後国の人だそうです。同田貫正国同人。是光というのは、室町時代中後期、備前国の人だそうです。長享年間から永正年間頃にかけて作刀したそうです。銘にある資則は、おそらく播磨守護赤松政則のいち族のものであると思われ、是光は赤松氏に仕えていたと考えられているそうです。

 

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