刀工事典(か行4)

清光は室町時代末期、備前国の人だそうです。赤松氏の旧家臣で、備前東部を支配した浦上宗景の天神山城においても作刀したそうです。作風は広直刃に足・葉が入るそうです。國家という人は、鎌倉時代前期の山城国の人だそうです。粟田口派の祖で、國友、久國、國安、國綱らの父だそうです。國勝というのは、安土桃山時代の肥後国の人だそうです。小山左馬之助。同田貫派だそうです。『藤原』を草書風に崩して『左原』のように見える銘と、楷書できちんと切っている銘の蓋種類があるそうです。のちに清國と改名したそうです。國重は、南北朝時代初期の山城国の人だそうです。鎌倉の新藤五国光の門下だそうです。本国は大和国だそうです。のちに山城国京の五条坊門猪熊に移り住んだそうです。國重作と鑑定された名物「へし切長谷部」が福岡藩主の黒田家に伝来したそうです。國光と同じく長谷部姓ということで、一族とする説もあるそうです。子または弟子に國信がいるそうです。安土桃山時代の國重は備前国の人だそうです。備中水田派だそうです。銘の「井原」というのは、現在の岡山県井原市井原町から西江原町のことだそうです。備前伝に美濃伝を加味した優品があるそうです。安土桃山時代、備中国の國重は、備中国英賀郡砦部荘に住んでいたそうです。三村氏の備中松山城下において作刀していたそうです。永禄11年には毛利元就に迎えられて、安芸国郡山城下においても作刀したそうです。国資というのは鎌倉時代後期の肥後国の人だそうです。延壽派。延壽國村の子供だそうです。嘉暦2年の年紀作があるそうです。延壽諸工のなかでも技量がとても高かったという評があるそうです。國助というのは室町時代末期の駿河国の人だそうです。

國次は、南北朝時代後期の加賀国の人だそうです。藤島派。真景の子供だそうです。遺例に、折返し銘にされた平造刀があるそうです。作風としては、地景が活発に入って、刃文は金線・足・葉が盛んに働くそうです。國次というのは、室町時代初期、越中国の人だそうです。宇多國房の子供だそうです。平造脇指や短刀に優作が多いそうです。沸の深い互の目を焼き、玄人好みなのだそうです。國次というのは、室町時代後期の紀伊国の人だそうです。紀伊国粉川に住んでいたそうです。國の時の構えの中が☓となっていて、簀の子の中央の割竹の形に似ているということで、簾戸國次と呼ばれていたそうです。遺例に、皆焼の作があるそうです。國次というのは、室町時代後期の相模国の人だそうです。紀伊の國次三代が相模国に赴いたといわれているそうです。國綱というのは、鎌倉時代前期の山城国の人だそうです。粟田口國家の六男。鎌倉幕府五代執権北条時頼の時代に鎌倉へ下向したそうです。遺例に、時頼の御物となった太刀「鬼丸」があるそうです。作風としては、地鉄に乱れ映りが立って、刃文は直刃調に丁字を交えていて、帽子は小丸に返っているのだそうです。國時といのは、南北朝時代中期で肥後国の人だそうです。延壽國村の門人だそうです。國俊というのは、鎌倉時代後期の山城国の人だそうです。来國行の子だそうです。正和4年に75歳作と銘した作によって仁治二年の生まれとわかったそうです。沸映りのたった地鉄に刃文は京逆足の入った直刃を作風とするそうです。短刀にも名品があるそうです。國友というのは、鎌倉時代前期の山城国の人だそうです。粟田口派の刀工だそうです。粟田口國家の子供だそうです。後鳥羽上皇の御番鍛冶を務めたそうです。

 

→ 野牛(Buffalo)の日本刀基礎講座TOP ←